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みなさんこんにちは、長女の美雅です。ナッシュビル・テックの卒業式のリポートの次はジョン・ハートフォードの悲報です。
6月4日、ジョン・ハートフォードが癌のため、63歳で亡くなったとここ地元の新聞、“TENNESSEAN”で報じられました。デルマッカリ−・バンドのロニー・マッカーリーは、“ジョンはナッシュビルで最も創造力豊かなミュージシャンで、独創性のある曲を作り上げる作曲家だった”とコメント。
1960年後のどのバンジョウ弾きも、少なからずジョンから何かを習ったものでした。その影響が特に創造力に富んだ、突飛的で矛盾したものの中から成長しました。彼はバンジョウの先駆者であるアール・スクラッグスや、フィドラーのベニー・マーチン等から学びましたが、ジョンのサウンドはそれに似つかないものでした。彼は、伝統的なカントリー音楽を大事に維持し、これまでの彼の試みから何千もの若者にアコースティック音楽をする意欲を発揮させ、新しい方向へ導びきました。
ジョン・ハートフォードが癌のため、63歳で亡くなったと知らせるナッシュビルの新聞“TENNESSEAN”
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ニューグラス・リバイバルのメンバー達は、風変わりで目覚ましいジョンのアルバム、“Aereo−Plain”からかなりの衝撃を受けました。ジョン・コーワンは“1970年代始めには、トラッド派とニューグラス派に分かれていた。ジョンはアーティストとして十分な名声を持った人物だったので、その壁をうまく貫く事ができたんだ”と証言しています。
ジョンは、歌い、フィドルを弾き、下からマイクで通した合板の上でダンスするというソロ・パーフォーマーでした。ジョンはコードレスのマイクをフィドルに付ける、というのが流行する前からそれを使っていて、観客を驚かせていました。またサム・ブッシュは“病気である間、音楽は彼にとって治療になるものだ。楽器が弾ける限り、それが一番しあわせだ、と言っていた”と語っています。
4月に入ってから、楽器を弾けないくらいジョンの癌は悪化しました。フィドルで有名な、マーク・オコーナーや著名なバンジョウ奏者のアール・スクラッグスがジョンを訪れ、彼の好きなフィドル・チューンを弾きました。
余談ですが私達、中島ファミリーバンドがジョン・ハートフォードという特異なプレーヤーを知ったのは私がバンジョウを弾きはじめたころ、“マール・ワトソン メモリアル”で見た、ジョンがバンジョウを弾きながら板の上でダンスをしたり、面白いパフォーマンスをしていたビデオでした。
その後、1993年にツアーをした際に、オハイオ河をクルージングしながらブルーグラスを楽しむという、“Midnight River Cruise”で初めてジョンの生の声を身近で聴きました。
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Midnight River Cruise 左からマイク・コンプトン(m)、ジョン・ハートフォード(f)、右がデビット・グリア(g)。 ここをクリックすると大きな画像になります。 |
1994年のIBMAアワード・ショウではフィナーレで他のプレーヤーと一緒にセッションしたり(NFBの活動記録1994年)、アメリカ珍道中の“IBMA編その7”にありますように、ジョンの大きな写真の隣に由美の写真があったりと、何かと触れ合う機会がありました。
最後にジョン・ハートフォードを見たのは昨年9月の“Fest De Ville”でのジョンのためのコンサートでした。(ナッシュビル・レポートその5を参照)独創性のある曲を作り、あの独特なパーフォマンスで人々に大きな影響を与えたジョン・ハートフォードが亡くなったのは、非常に残念です。
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